◇ 白風の魔術
飛び出してから、アリスは休むことなく走り続けた。
苦しいだとか、辛いだとか、そんなものはとうにどこかに消え、体と分離した自分を傍観している心地だった。
息が詰まって奇妙な音がでてもそれが自分の物なのかどうかわからない。不思議な虚無感の中で、ただ焦りだけがかすかに残っていた。
それがかすかに薄れたのは、周囲の草が枯れていることに気づいた時だった。
道はあっている。この先がセクレ聖堂――
残りの道のりは早かった。噴水が見える。
落ち着いた頭とは反対にせわしい息づかいも気にせず水を流し込む。むせたり、吐いたりしながらそれでも飲んだ。
少し荒い程度に息が収まると、また走り出す。聖堂に向かって。
甲高い鐘の音に虚ろだった意識を引き戻すと聖堂の前に人が立っているのがわかった。
白っぽい髪のそれは、シオン。離れた背後に男性が一人、その頭上にディトーハが一匹、脇には乗り物らしきものもある。
アリスはシオンに近づく。
赤い左目。ウィルスが働いている証拠。手には銃器が握られている。
立ち止まると離れた場所に立つ男性の方が声をかけてきた。
「まったく使えない駒に任せてしまったものだ。ウィルは行方知れず、
シオンは小娘にほだされる」
アリスは男を一瞥して、シオンを見据えながら独り言のように呟く。
「エルフス、教授」「正解だ。直接交渉に来てやった。感謝しろ」
くつくつと笑うエルフスをそれ以上見ず、
アリスはシオンの赤い左目を見据え続けた。
「用件はわかっているはずだ。色ビンを渡せ」
冷静に脳を回転させる。“色ビン”と言った。
ということは……封がとけてしまっていることも、今色魂がアリスについていないことも知らないのかもしれない。
二匹目のディトーハはいつからついてきていたのだろう。期待を込めて、赤い目に小声で名前を呼ぶ。返事はない。
「ちなみに、断ればシオンがわたしを殺すのかしら」
「愚問だ。素直に渡せば、実験体として有用に使ってやってもいいぞ
―――さぁ、どうする」
満足げなエルフス教授の声に、おどけた風にアリスが答える。
これは、時間稼ぎだ。
「……正直どっちも惹かれないわね。他に提案はないの?」
「あるわけが無いだろう」
アリスはシオンの目を見据え続ける。お願い、
「――色ビン、ね……」
……はやく、
「そうね、渡してもいいかもね。でも……」
……頼むから、
「実験体っていうのは、ちょっと、ね……」
ポケットに手をいれる。手探りでビンのふたを閉めた。ゆっくりとした動作で
色ビンを外気にさらした。もう、賭けるしかない。
「ね、シオン。あなたそろそろ、―――」
赤目を睨み据えながら、色ビンをエルフス教授に投げつけた。高い放物線を描くただの小瓶にエルフス教授は手を伸ばし、
アリスが駆け出す。シオンに体当たりがてら、言い捨てて。
「ウィルスと別れたらどうなのッ」
よろけたシオンの向ける銃口がアリスの背に向く。一瞬引き金を引く動作が止まる。
けれどすぐに銃器を持ち直し、連続して発砲した。
――エルフス教授に向かって。
赤い目がちらつくように揺れてグレーに戻る。
その合間にアリスは聖堂の中に飛び込んでいた。
・・・
「アリス、立てるかの?」
優しい声が聖堂の床に倒れたアリスに降り落ちた。渾身の力を込めて半身を起こす。立とうと足を動かすのに、痙攣しか返ってこない。
見かねたように肩を貸してくれた小さな体に、遅ればせながら問う。
「だれ……」
深く柔らかい声が答える。
「ソアラというんじゃが忘れてしもうたかのう」
「か、れてしまったんじゃ……?」
「必ず待っておると言ったじゃろう。役目を果たすまで死ねないのが運命の導役なのじゃよ」
よろめきながら歩き出したアリスの前に、不意に色彩が四つ現れた。
「お前たちも間に合ったようじゃの」
色魂の心配するような声がアリスを呼ぶ。なんだか初めに出会ったときより彼らの感情は豊かになっているようだ。
一向はソアラに導かれて隠し扉の奥にある階段を下る。
言うことを聞かない足を叱咤しながら、シオンのことが頭をよぎる。無事だろうか。
いざとなれば魔の毒とやらで瞬時に潰されてしまうのだと今さら思い出す。
ウィルスの支配が解けてしまったら、いや、それより色ビンがカラだということに気づいたら―――
駆け下る思考を止めたのは、ソアラの柔らかな声だった。
「アリス、ここが“巡り”の終点じゃよ―――」
途切れた階段の奥にあるのは、聖櫃な空気が満ちるホールだった。
アリスが一歩その中に踏み込むと、にわかにありとあらゆるトーンの色彩が溢れ出し簡素なホールを賑やかす。
どこからか伸びだした白い光の糸がホールの中心に寄り集まり、なにかの形を作り始めた。
現れたのは―― 一人の女性だった。それも、色彩をきちんと纏った。揺れる髪と瞳は薄いグリーン、肌も灰色ではなかった。
「アリス」
その声は今まで聞いたどんなものよりも、暖かかった。
「あなたは……」
「風。そう呼ぶといいわ」
彼女は静かに近づくと、アリスの両頬を優しく包んだ。
「アリス、これは最後の選択です。――あなたは色を求めますか」
色魂がアリスの周りで騒ぐように輪を描く。
黒一色に近づく青の谷。希望を灯すような鮮やかな色彩は、商売を目当てに利用され、父も、その犠牲となった。
答えは決まっていた。
「ほしい。ください、お願い……」
風は哀しく笑いながら問い重ねる。
「色を取り戻すにはあなたが“風”になり、一千年もの間、色の集う町に色魂たちと留まり続けるとしても?
そこにアリス以外の人間はいないのよ」
「でも、あなたは?」
風は静かに首を横へ振った。
「わたしはもう風でいられない、色を保てないの。――だれかが引き継がなくては本当に色は枯れてしまう。代替わりの時なのよ」
指先がアリスの額に触れた。その冷たい皮膚越しに風が見てきたものがアリスの中を吹き抜けた。
指が離れた時、理解した。
“風”は青の谷のために用意された、生けにえなのだと。
・・・
シオンが放った弾丸は真っ直ぐにエルフス教授に飛んだが、触れる直前、軌道を変え曲がり、ディトーハを打ち抜いた。
「お前の目の前にいるのがだれか忘れたのか?」
嘲った声に脳が冷静さを取り戻す。エルフス教授が色ビンを持っていることに気づく。
ふたが閉まっているが一度封がとけていたし、色魂たちは入るのを嫌がっていたから、おそらくカラだろう。
ならアリスは。
銃を向ける赤い目を睨み据えたまま逃げなかった彼女は。
「さて、残念ながらお前は使えない駒だったようだ」
色ビンを持つ反対の掌の中に輝く文字が浮かんでいた。魔の毒だろう。あれを握りつぶせば、おそらくは。
・・・
――パパは知っていたんだろうか。
色ビンについて詳しく教えなかったのは、アリスが逃げ出すことを恐れてだったのだろうか。
――母さんが死んだ時からわたしはもう、研究を完成させる生けにえでしかなかったの?
そして思い至る。
ここで拒否したとしても、帰る場所がもう無いことに。
そこまで考えて父は死んだのだろうか、そんなにも色は悲願なのだろうか……
確かにそうだといっても頷けるほど圧倒的だった虹。
思い出すと今も、灰色の肌が痺れるようだ。
『アリス、マホウを架けよう。虹という名の』
もう、他の道は残されていなかった。これが、御女神が用意した“巡り”だというのか。逃げ道が残らないということさえも。
輪を描く色魂をじっと見つめて、諦めたようにアリスは笑って――頷いてみせた。
色魂たちと暮らすのも、そんなに悪くは無いかもしれないじゃないの。
だって、もうここにはなんにも残ってないんだもの。
涙をこぼしてアリスを抱きしめた風がゆっくりと白い光を放つ。体を溶かすような温もりをアリスは知っていた。
―― あぁ、でもシオンはいたのに。
溢れる白はアリスを包み込み、そして急速に辺りを白で満たしていく。
白光は聖堂から溢れ、外へ伸び、地面を、空を――モノクロームの青の谷すべてを覆った。
―― どうか、無事で。できれば、しあわせに、
真っ白な光の中でアリスは人の声を聞いた。懐かしく、なによりも暖かな響き。
『アリス、わたしもパパもあなたを愛しているわ』
それがここでの最後のものになった。
白い光が跡形も無く消えると、アリスも消失していた。
代わりにモノクロームだった青の谷に色彩が満ち溢れ、マホウのように巨大な、それこそ世界に架かるほどの虹が輝く。
地上の人々の歓声が、大気を揺らした。
・・・
エルフス教授がシオンを潰すより先に白光が視界を支配した。シオンが目を開けるとそこは真っ白な、ホールのような場所だった。
―― 一体これは。
彼の目の前に一房だけ地に付くほど長い髪の人が立っていた。その特徴は兄が教えてくれていた。
「……御女神」
「ウィルのように運命の導となって生きながらえるか、それともここですべてを終わりにするか――
風に手を貸したことに免じて運命の選択を許します」
「――ウィル兄は」
「あなたが思うような心配は要りません。自身のことだけを思い、選択なさい」
不意に笑いがこみあげてきた。
御女神の駒になるか、御女神の駒もエルフスの駒もやめて死ぬか。
なんて選択肢を提示するんだろう。
幾年と経ちそうなほど長い沈黙の後、答えを告げる。
御女神は小さく頷いただけだった。
・・・
白い光に満たされたその巡りは、巨大な白い鳥の羽ばたき(ストラフィリ)と呼ばれた。
色を運ぶ風は、うなるような低いトーンから甲高いトーンへと音域豊かに歌い、地下の町へと吹き込む。
彼女が毎日駆け下った階段の先に、鮮やかに色づいたタンポポが舞い降りる。
――ただいまを告げるように。
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