◇ 夜明けを待つプラットホームに
東の王国の王都はどうにも、いびつだった。
色に格差があるのだ。
完全な白と黒のツートーンの区画、明度の段階が多い場所、少ない場所、一番驚いたのはグレーが濃くかかっているものの薄く色彩が残る区画があったことだった。
アリスがポケットに隠れてもらっている色魂に問うと、黒の割合が高ければ高いほどその区画は危険だから避けるよう忠告を受けた。
シオンが根拠を尋ねると、意外な話が聞けた。
『色ノ豊カサ、心ノ豊カサ。色ガ褪セレバ、心モスサム。危ナイ』
「じゃあ……一番ややこしげなのはお金持ちっぽい家なのにモノクロツートーン区画、とか」
「追いはぎの恐れを考えると逆かもしれませんが、どうなのでしょう」
「やっぱり両方アウト?」
小声で相談しあう二人の間にふわりと色魂が浮かびかけ――アリスが目にも留まらぬ速さでつかみポケットに押し込んだ。
「あんたたちふよふよ浮いている上に鮮やかすぎて目立つんだから
出てきちゃダメ!ふた閉めないから色ビンの中にいてちょうだい」
表情の起伏が少ないシオンは涼しい顔のままだったが、冷や汗が浮いていた。
「心臓に悪いわ……」
薄く色彩のある区画だからまだ幻覚で収まるが、これがツートーン区画だったら……さっきの説明も加えて考えるとよりぞっとした。
王都の若干ながら色彩が残る区画でも、通りは静かなものだった。人通りも多いとは言えない。
それをいぶかしんでいたが、今は人目がなかったことにほっとする。
『背負っているものがなにか、“巡り”の中でなにを選ぶか』
讃者・ソアラの言葉を反芻する。なんらかの答えを得たとして、聖堂に戻っても……。
俯き気味に歩くアリスに色魂がささやく。聞く体制にあることを示すために、もしくは飛び出さないようポケットの色ビンに触れる。
『止マッテ、右』
色魂の声にしたがって見ると“虹の館”と書いてある。
『色ノ気配、濃イ』
「色に気配って……あんたたちが親玉なのは聞いたけど。なによ、入れっていうの?」
手のひらに肯定の気配を感じて、戸惑った顔をシオンに向けた。さりげなく肩をすくめ、シオンは迷いなく戸をあけた。
慌ててアリスも後に続く。
だれもいない受付カウンターを素通りし、ゴム臭い廊下を歩く。全体的に質素なつくりで特に色彩が鮮やかだということもない。
色魂を疑い始めるほど、もったいぶった長さの廊下は、不似合いに威圧的なドアで途切れた。
シオンは一度振り返りアリスの姿を確認すると、ドアを開く。
その先に。
そこに、灰色の肌を焼けるように痛ませる、鮮やかな色彩があった。
呼吸を忘れた力ない背を、シオンがそっと押す。
それは目の覚めるような、始めてみる夜明けのような。
鮮やかすぎる虹が、檻の中に小さく架かっていた。
『本当ハ色ガアルコトガ普通ダッタ』
「ふつう……?これは、普通なの?」
尋ねる声は震えていた。
『ソウ』
生まれた時から周囲はモノクロだった。父が物と物の境がよくわからないというのは視力の問題ではなかったのだろう。
ここは、こんなにも明るい。こんなにもくっきりと見える。
それが、普通。これが、娘を放って求め続けた研究。
その成果をポケットの中に握っているのだと思うと、長い間父を縛っていた研究への恨み心が消えていくようだった。
どうして父はちゃんと、研究がどういうものだったのか教えてくれなかったのだろう。
知っていればもう少し、なにかが変わっていたかもしれないのに。
『アリス、ワタシタチ色ノアル青ノ谷、望ム』
アリスは静かに頷いた。同じ気持ちだった。色魂とも――父とも。
テーブルに屈みこむ猫背と返事ともとれない呻き声が、無性に懐かしかった。
――色を取り戻そう――母さんが好きだったタンポポの色が、知りたい――
隣からただならぬ気配を感じ振り返ると、シオンがアリスの口を塞ぎ、腕を乱暴につかんでひっぱった。
突然走り出したシオンにアリスが慌てて歩調を合わせて駆ける。
出口らしいもう一つの戸から飛び出し、一瞬振り返ったシオンが唇に人差し指を当てるジェスチャーをしてまた走り出す。
足を止めたのは角を曲がり身を隠したところだ。
目を白黒させて、呼吸を整えるアリスにシオンが必要最低限を小声で教える。
「足音が。表に特別客来店、貸し切りと」
「知ってたんなら、なんで入ったの!」
アリスも小声で怒った。
「止められたら出れば、でもできれば鉢合わせない方が」
「当たり前よ!」
返事の変わりに耳を澄ますジェスチャーをした。
『……こそ、ヴォルバルト王子。お待ちしておりました……』
媚を売るような男の声だ。びくりとアリスが身を縮める。“王子”。ここ、東の王国では王族がすべての権限を持つ。
機嫌を損ねでもすれば、ことあるごとに権力を誇示したがるだけになにが起きるか――。
想像が行き着くより先に、シオンの袖を引いて出口を指差す。幸い出口側の廊下は短い。
「色研究者が研究成果すべて焼き払って死んでくれた。ここに残ってる資料を全部持って来い。調べる」
出口に向かう体が固まった。
「用意しております。――自殺ですか」
「ああ。予算の調整が済んだから、もう二、三店ここみたいな店を増やして国庫を潤す算段だったんだが……
作り手が資料もろともやられたからな。残った資料でなにか出来る余地があればと――」
紙束がぞんざいに扱われる音を聞きながら、アリスは嫌な予感を必死に打ち消す。それでも話の続きを聞こうと足が道を戻る。
まだ、角から顔をださない自制心は残っていた。
『遺言は、“あふれる色が世界を変える”だと。本来なら晒し刑の研究なんぞしていた下民のごときが、
王家に楯突こうなどと反吐がでる……ヴォンヘルト?』
『あふれる色が、世界を変える。』
―― 父しか、いなかった。
地下の町なんて酔狂な場所に住んでいたことの意味。“列車はもう来ない”と言った意味。
なによりそんな遺言を残すのは、そんな遺言しか遺せないのは、父しかいない。
そして、願いを叶えられるのは、もうアリスしかいないのだ。
「……叶える、わ。かならず。どうしたらいいかなんてわからないけど、
でも……必ず」
だんだんとしっかりしていく声に、柔らかな女性の声が答えた。
『聖堂へ、アリス』
驚いて振り返るとシオンしかいない。いや、シオンの様子が妙だった。
「シオ――」
「お前たち、そこでなにをしている?――兄様、イヌが入り込んで……」
アリスはシオンのゆっくりとした瞬きを見つめた。シオンの背後に、ディトーハがいた。
若干覚悟しながら開かれる左目を注視する。――レカのような、皮肉なほど鮮やかな赤が宿っていた。
シオンの手はポケットに吸い込まれ、よどみなく銃器を取り出し軽い発砲音を響かせた。
弾丸はアリスの耳をかすって、背後に悲鳴を上げさせる。
“ヴォンヘルム!”と叫ぶヴォルバルト王子の声と、引き止める声が虹の部屋から聞こえる。
次弾を装填する金属音。やけにゆっくりと聞こえる。
「シオン、今日は檻みたいな楽器の演奏会、開かないわけ?」
厭味を込めた笑顔で尋ねるが、赤い瞳は虚ろだ。照準がアリスの額に合う。発砲を覚悟して目を閉じる。
閉じるが諦めてはいなかった。金属の噛み合う音と、アリスが一か八かで屈んだのが同時。
もう一発発砲されるのと、アリスが偶然転倒したのも同時。運命の女神が力を貸しているとしか思えなかった。
ちらとうかがったシオンの目は、さっきより赤が鈍くなっているような気がした。
きっとウィルスと――教授と戦っているのだ。彼の兄がそうだったように。
けれどこれでは打たれる方が先だ。覚悟をしたアリスに色魂の声がかする。
指示通り目を閉じた途端、どこからか強烈な白光が洪水のように溢れ出した。瞼の裏まで届く光の強さ。
怯むアリスに、色魂の悲鳴のような声が急かす。
『逃ゲテ!アトカラ追ウ!』
なにも考えずに駆け出した。
あちこちにぶつかりながらも、出口を探りあて、飛び出す。
どこに逃げれば?
―― ソアラさんは、戻るようにと。
父が残した唯一の手がかり。たとえそこに枯れた死体しかなくても、ほのかな希望の灯火はそこにしか残っていなかった。
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