◇ 御女神の導

アリスは早くに母親を亡くした分、器用な子だった。
短い一人旅もここまで順調に来ていた。
来ていたのだ。

「あぁ、もう!」

アリスは順調にゴズロップ山脈麓まで来ていた。 響きこそすぐ傍まで来ているようだが、ゴズロップ山脈は国を二分するほどの巨大山脈。
麓は麓でもずいぶん幅広い。頼りは父親に渡された地図一枚……というのに。

――その地図が古すぎて役に立たないってどういうこと。

地図にはあるはずの道はあきらかに廃道化し草に埋もれ、仕方なく方角を頼りに憶測で突き進む。 対処の仕方もわからない。頼れる人は誰もいない。
水筒の水も切れ、このままでは行き詰ることは明白だった。
前を阻む草はうっそうと黒く茂り、身丈はアリスの身長を越える。
先を俯瞰(ふかん)することもかなわず、不安がいわれの無い恐怖を育てていく。
それをあおるように木々が妖しく揺れた。

――はやく、早く道に出ないと。

足で草の根元を踏みつけ、手を探るように伸ばし進む。ぴんと立った草は精気に
満ちていて時々アリスの手を傷つけていく。

――パパのばか。研究魔め。

進まなくちゃ草の海は渡れない。その手が不意に空をつかんだ。草が、ない。
アリスが動きを止めたのは一瞬で、思い切って前に進む。両手が空をつかみ、
アリスの体が草の中から踊り出た。
信じられない思いで後ろを振り返る――さっきまで絡み付いていた巨大な草が
あった。前に向きなおると間違いなく平地、それも道に出ていた。
から笑いながら地面にへたりこむと長いため息がこぼれる。

ゆっくりあたりを見渡すと、視線の先に黒い水をはく真っ白な噴水があった。
軽くなったままの水筒を思い出す。
気持ちに区切りをつけるように大きな呼吸をひとつ。立ち上がり、近づいた噴水は
石造りでしっかりとしているようだ。
水筒を黒々とした水面に沈め、開いた片手で水を口元に運んだ。
喉が潤うと、アリスは満足した表情で顔をあげた。

「どこ、だろ」

声にだしても返事がないことが辛い。言葉ですらないくぐもった呻きすら帰ってこない。旅に慣れても一人きりには慣れなかった。
水筒を引き上げ、水面を見る。映ったのは、ぼさぼさの髪に、変わってしまった顔つき。 頬をひっぱって笑わせてみるが、ちょっと見れたものじゃない。
とりあえずと髪を軽く整えていると、水面の向こうにだれかが写った。

―― 人……!?

幻覚を見るくらい、一人は耐えがたかったのかとも思ったが、振り返ってそうではないことがわかる。

「あ……こ、こんにちは。――あの、」

そこにいたのは少年だった。表情のない顔つきに気後れをしてしまう。

「色ビンを持っているのは、お前か?」

アリスはあとずさる。噴水の縁にぶつかった。

―― 引きこもり研究魔の御託を、どうして。

「……どなた様?」
「ウィル。後ろにいるのがシオン。エルフス教授の使いで、色ビンを盗りにきた」

生気のない表情と、抑揚のない声が奇妙におぞましい。ウィルという少年の背後にはなるほど、遠いがもう一人いた。
アリスはしばらくの沈黙を守って、口を開く。

「エルフス教授?なら人違いじゃないかしら。わたしは別の人と約束してるもの」

―― ごまかせるだろうか。 不安を心に押し込めながら返事を待つ。
ウィルはポケットに手をいれた。目を閉じ、次に開いた時、

「邪魔なものは潰せばいい」

左目だけが色魂の色を灯した。

「まっ待って、ちょっと待ってよ!」

色ビンの外に、『色』が存在している。そんなこと、聞いていない。

「色ビンを渡すか?」
「そうじゃなくて、め―――」
「待つ必要はない」

無感情な声と同時に、ポケットから短剣がひらめく。振り上げる動作に反応して身をかばうように腕を前へ。
水音と共にうめき声が聞こえ、よく見れば水筒の水に襲われて怯んだウィルがいた。無我夢中で水筒を振り回す。
混乱に任せるがまま振るわれた金属は、見事というべき鮮やかさでウィルの後頭部を打ち据えた。 鈍い打撲音の余韻に息が詰まる。起き上がる気配は、ない。
噴水とウィルから二歩、離れる。目が離せない。
アリスの背後にシオンがゆっくりと歩み寄ってくる。
気づかずにアリスはもう一歩引く。
不意にウィルが僅かに動いた。――いや、髪が動いただけだ。けれど風にしては妙だ。 皮膚がちりちりと痛む。この感覚。色ビンの傍で、そしてウィルからも感じた、

「魔……?」

白光が集まってくる。声もだせないほどの一瞬でウィルは見えなくなり――
光が消えると、跡形もなく姿を消していた。
“魔”に似た気配もまぼろしのだったかのように残っていない。

「なんなの……」
「……魔術の類でしょうね。御女神に回収されたのでしょう」

背後からの返答。息づかいすら聞き取れるほどの近くから。
そうだ、遠いところにもう一人。

―― シオン。

今度こそ、ころされる。

「振り返ってくださって構いません。話がしたい」

恐る恐る振り返る。そこにいたのは、やはり幼い印象を与える少年だった。


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