乾いた大地に歌が響いていた。
 うなるような低いトーンが甲高いトーンへ転じ、ひとときのま間に遠く果てまで響いていく。 音域豊かな音色は、砂漠を駆ける風のうなりだ。
木々はなく、風の王が砂粒の妃と踊り続けるばかりの砂地。
そこへ日々訪れる几帳面な夜は、深い闇をもって空虚さを強め、風の慰め歌がどこまでも哀しげだ。

森の中にポツリとうかぶ砂漠。そこに、二人は住んでいた。
地上から隠れるように。


◇ 地中のプラットホーム


 暗い地下に、廃油灯の不燃臭が充満していた。
砂漠の地下に作られ、廃墟と化した町。遺された古い手記によると、
国罪を犯した人々が逃亡までのしのぎに作った避難所だという。
捨て置かれた地中の廃墟に一軒、灯りの灯る家がある。
身を寄せる住人は二人。それが町の総人口にあたる。

二人のうち、一人は娘だった。彼女は軽い足どりで階段を駆け下りていく。
灰色の肌にかかった黒く長い髪を束ねながら。
名前を、アリス。

アリスは階段の先に続く部屋の戸を軽やかに開けて中へと進む。
「色研究者」を自称する、彼女の父親の研究室だ。

この時代、スタール2022年。

青の谷全域で色が失われていた。すべてが白と黒に大別され、人々は僅かに残る明度を頼りに物質を識別し、暮らしている。
アリスのみならず、だれもの肌が灰色じみていたし、髪や瞳も同様だった。
父親は繰り返しアリスに話した。
彼女が物心つく以前に残っていた色彩の存在を。
その鮮やかさを想像できないアリスに、父親は決まってこの世の呼称が
“青の谷”とされる由来を解く。
果てなく高い空の様は、青に満たされた谷底に住まっているようだという比喩から生まれたのだと。 アリスからすれば“黒の谷”――譲歩して“灰色の谷”としか言いようがないし、もとより“青”のイメージがつかないのだ。
そんな色を失った青の谷で色を研究する者。それがアリスの父親だった。


研究室はまるで長い廊下を思わせる造りだった。棚が部屋の両壁を覆うようにめいっぱいしつらえてある。
そこに並ぶ器材は、廃油臭い部屋にそぐわないほど美しく磨かれてあり、鈍く光を留める鉱石は綿布団の上に丁寧に置かれている。
部屋の奥へ近づくと書籍が身をよせ合いだす。それは国罪を負った先住民が残した『魔』に関する手記だ。 父はそれを研究資料として生かしている。アリスはそれをぼんやりと眺めながら歩いていたが、ふと奥を見やり、足を止めた。

羽音が聞こえると思ったら、ディトーハが迷い込んでいた。
ディトーハは胴体がボールのように丸く、暗い場所を好むこぶし大の生き物だ。 空気口から入ってきたのだろうか。地下にあるうえ、ほの暗い廃油灯しかないこの部屋ならさぞかし快適だろう。
アリスは、絶え間なく羽ばたく黒い二枚の羽の下に視線をやる。
古ぼけた大きなテーブルが一つ、そして小振りの椅子に腰掛けた父親の窮屈な猫背。

「パパ」

アリスが幼い頃に地下へ移り住んでから、父親は色を研究していた。
まるでそれこそ『魔』に魅入られたように、食事もろくにとらず昼夜構わず没頭するのだ。
それほどのものなのかどうか、『色』を知らないアリスにはわからない。

「ちょっとパパ、返事くらいしてよね」

この分ではからかうように頭上で飛んでいるディトーハにだって気づいていない。呆れたものだ。
しばらくの時差のあと、猫背から意味不明の呻き声が返ってきた。アリスは足音荒く父親の背後に詰め寄る。

「まったく、熱心に何年も何年も……」

アリスのまなざしには不満よりも、真剣な興味心が見て取れた。
跡を継ぐ気こそないが、手品以上の驚きをくれる『魔』は好きだった。
 テーブルには焼け爛れた黒い魔術の焼き印、その中心上に置かれたガラス製の小ビン。
表面には不可解な文字が描かれており、大きさは親指と人差し指で示せた。
膨らんだビン口の下には銀糸の混じるしっかりとした紐がゆわえてある。
脇に置かれた口に嵌めるためのコルク蓋を、父のやせた指先がつまむ。そしてビンの口を閉ざした。

 アリスはため息をついて顔を上げた。神経を裂いて扱う父親の一挙一動は、いっそ病的だ。
観念して、棚の陳列物をもう一度眺め始めた。幼い頃、実験器材が遊び相手だったことを思い出して、慣れたはずの寂しさに襲われる。

「……アリス、」

 父親の静かな呼びかけに、アリスが振り返った。

「外に出ないか?」

 アリスは軽く頬を膨らませてみせた。
しかし、それがしぼむと、傷ついた目を隠すように顔を伏せる。

「うん、邪魔だったね。ごめん」

 降りてきたばかりの長い階段に、アリスは長い髪束を揺らして小走りに近づく。それを父親はやんわりと止めた。

「いや、ここにいなさい。――お前は少し……早とちりがすぎるよ」

 久しぶりに聞く声は苦笑交じりで、少しやつれたようにも思えた。

「じゃあ、なんなの?」

 責めるような口調だったが、くるりとスカートの裾をひるがえした顔は微笑んでいた。

「外といっても――根本的に地下を出て行かないか。砂漠の向こうに」
「なによ突然。買い物?大丈夫よ、貯蔵庫ならこの間補充したところじゃない」

 だいたいパパが買い物リスト作ったのよ、と続けるアリスに父親が真正面から向き直る。

「いや。……使いに出てほしいんだよ。外に届けたいものがあってね」

 ずいぶんと寂しそうに言った父親にアリスは首を捻った。まるで死んだ母の話をする時のようだ。

「わたしが……ひとりで?」
「ああ。……アリス、世界にマホウを架けたいんだ。研究を――完成させたい」

アリスは荒れた長い髪を指先で弄びながら、小さく呻いた。やはり、この父親は自身の研究ばかりが大事なのだ。
もうずっと昔から知っている。知りすぎていた。
この父親はいつだってたった一人残った家族より研究を選ぶのだ。

「これを、」

 そう言って父親が差し出したのは、さっきまでテーブルにあった小さなビン。
娘より心と時間を割いた成果。

「結局パパの研究ってなんだったの?……これは、なに?」

 ビンからのびる紐をつかんで尋ねるアリスの瞳に、疲れた笑みを浮かべた
父親が映り込む。目が合うとその目尻が優しく緩んだ。

「マホウだよ。よく見ていなさい」

促された通りビンを見やったアリスの目が、ビンのガラスに映りこんだ。
気のせいだろうか。
見つめた途端、鼓膜が小さな音の震えを拾いはじめた。
戸惑ったアリスはビンの向こうの父親を見つめる。そこには相変わらずの不可解な笑み。 困惑しきったアリスの鼓膜を強い震えが襲う。耳の奥で小さな震えが肥大していく。

―― 気のせいよ。

震えはわぁん、と乱暴に響いて神経を、脳の芯をじんと痺れさせる。

「っ」

強く瞼を伏せて痛みに耐えた。きつくきつく閉じると瞼の裏が白く変わる。
白の中で、幻覚が見えた。
一房だけ地に付く 長い髪の。

……だれ?

思考できるようになる頃には、痛みも引いていた。

――こんな痛みがマホウなの?パパ。

目を開ける。ビンが見える。

――絶句した。

見開かれた灰の瞳が異質な輝きを捉える。痛みに歪んでいた表情は
一瞬にして驚きに、次に未知に対しての恐怖が滲む。

「きれいだろう?」

うっとりと呟く父親は硬直した娘を歯牙にもかけない。
ビンにかけられた『マホウ』。
それは星のように瞬く四色の鮮やかな『色彩』だった。
怯えたアリスの目に映る――青・緑・黄・赤色のまばゆい色の粒。
それが蛍のように浮遊している。

「さっきまで……なにも――」

のどから絞り出されたアリスの声を区切りに、ビンの色彩が霧散した。
まるで本当に夢だったかのように。

「一つ一つを色魂(しきこん)。外側のビンが色ビン(しきびん)。これが色彩を呼び覚ましてくれる」
「だから、わけがわからないわよ……」

アリスの声は震えていた。
父親は苦く笑い、観念した幼子のように言う。

「正直、作っておきながらパパにもよくわかっていないところが多い。ただこれは白と黒以外の色をよみがえらせるはずだ」

その後の言葉は真剣に告げる。

「アリスに頼みたいのは、この色ビンをゴズロップ山脈の麓にあるセクレ聖堂に持っていくこと。 そこに住む讃者(さんじゃ)・ソアラ殿に見せなさい。
……色のマホウを架けてほしい。パパのかわりに」

 言えることはこれだけだと若干俯き気味に告げる父親に、娘は渋りながらも頷いてみせた。 本当にこの父親は研究のこととなると盲目になる。呆れを覚えるが、それでも了承した自分にアリスは苦く笑った。
母親が死んでから、いつもどこか遠い存在の父親。ここより遠い場所に行ってしまうのが怖いのだ。 たった一つ残された繋がりが切れてしまわないように、反発ひとつせず父親の頼みを受け入れた自分を、馬鹿馬鹿しいと思っていた。
けれどそれが、自分の姿なのだとも。
父親が小さな声で言った。
 こんな地下の駅にもう列車は来ないから、砂に埋もれた線路を辿って違う駅で列車を待ちなさい、と。
 それが母の好んでいた物語に似せて言ったのだと悟り、アリスは微笑む。

その笑顔はノイズに侵食され、引き千切られて黒く消えた。

・・・


 ぷつり。 


そこで映像は黒く途切れた。

「わかったか?あの娘だ。あの娘が色魂を持っている」

 低い声が、冷たく言った。薄闇の中で小さな翼が上下していた。
胴体部を膨らませたこうもりに似たそれは、やがて声の主の肩口にとまり、羽をたたむ。 そうしてふくれた胴体部をしめる大きな一つ目を瞬かせた。
ぎょろりとしたレンズの瞳と、魔術陣が焼きこまれた瞼が交互に現れる。声の主が盗撮用に改造した『ディトーハ』だった。

「わかるな。お前たちはあれを奪ってこい。――持ち主は潰して構わん」

 答えたのは映像を見終えた幼い少年二人。

『わかりました。エルフス教授』

 従順な応答に、エルフス教授がいっそう深い嘲笑を浮かべた。

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